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観劇したりイベントにいったりの記録です。基本的に自分メモ

舞台刀剣乱舞:結いの目の不如帰・ネタバレあり雑感

ネタバレがもりもりもりしてるし感情論がメインなので構造的な考察はしていませんのでどうぞよしなに。
ゲームの事とか自分の刀剣乱舞解釈とか色々ごっちゃごちゃ。妄想も大分含んでる。

 

 




 不如帰って出た瞬間に「足利義輝の辞世の句…」って胸を抑えたんだけど大体キービズとかで覚悟はしてたものの殆どが一幕でつまってて。

幕間に「一幕???え??これ一幕うええええええええええ」となってしまった。


続けて二回見て色々考えて(現在進行形で考えている)刀ステのメインの物語は三日月宗近と山姥切国広の物語なのだなと再確認したのだけれど、正直な所「今回では決着がつきませんでした」って話だし三日月からしたら「また今回も決着がつけられませんでした。もう一回行ってきます」という話だ。
あの本丸で決着をつけて欲しい人からすればなんでだよ!となるところだと思うけど、そもそもがそういう話なんだ。

三日月宗近は円環の中を回っている。何度も何度も繰り返し、という行為は「死ねない」という事に近く酷く残酷な話である。記憶をそのままに保持したまま。
人間の脳は忘れるように出来ている。辛い事悲しい事、そのままの新鮮な形、温度、感触で記憶しておくことが出来るほど精密ではないしそうする事が自衛にもなっている。ただ悲しいとかつらいとか憎いとかいうものは瞬間的な力が酷く強いから残ってたり取り出すのが容易であったりするのでいつまでも忘れないそれが怨念と呼ばれるものになったりもするし、ひとの強い気持ちが宿って物がつくも神になったりする。その刀のつくもである三日月宗近、舞台刀剣乱舞(以下刀ステ本丸)の三日月宗近の元の主として設定されているのが足利義輝だ。

永い時間在った刀剣達にはそれぞれ所有された主が変わっている。どこにいた時に強い影響を受けたかたというのはキャラデザや言動から判明することが多いのだけれど三日月宗近という刀は「美しい刀」という事が一番のアイデンティティであり「どの主の影響を受けたのか」という事が描かれなかった。大本であるゲーム上でもそうである。それは既に「美しい刀」という揺るぎないものがそこにあって2018年現在までその形が伝わっているからこその話だ。だから平安の世に打たれた三日月宗近には「きっとこうだ…」という憧れからくるような羨望、こうであった欲しいという願いがこめられてそれを象っている。
そして刀ステ本丸の三日月宗近は 鈴木拡樹 さんが三日月宗近とはこうあるべきを虚伝初演から体現してきた訳です。そのまあ体格とかは華奢でそこまで大きくはないひろきくんでしか出来ない、出せない「三日月宗近だ」っていうあの感じ。願えばそう在ってくれるという鈴木拡樹という人にこれほどまではまるのは三日月宗近がそういうキャラクターだからなのも大きいと思う。

その鈴木拡樹の三日月宗近の圧倒的な力が刀ステを支えているしそれが今回大ボスになってしまった~どうする山姥切国広~

三日月宗近とは何者だ」

作中小烏丸が不動、長谷部、山姥切に問いかける台詞。ここが織田信長とは何者だと問いかけた虚伝と対になっている。
それぞれが見てきた三日月宗近とは何者だったのか、という問いかけが彼等の心とこれから動くべきことを決める。あそこで長谷部がいるのが凄く上手いと思った。長谷部は黒田を経て今回極修行を経て、今の主のために!という部分に辿り着いているのだけれど山姥切が迷う事も踏まえていながらにして主のためにと言える刀がいないと根底から崩壊してしまう。
これが週刊少年ジャンプに連載している山姥切国広の大冒険!だったら「皆で三日月を助けよう!!守ろう!」になるんだけれど生憎刀剣乱舞はそうじゃない。過去の主の元へとばんばん飛び、多くは過去の主の死をそのまま死とするために戦う。彼らが守っているのは仲間でも元の主でも無く歴史だから。刀剣男士という生き物がそういうシステムの上に生まれているものだからそこを冒険活劇にする訳にはいかない。だから心があるのが悲しい。どうして物に心が宿るのかと山姥切が三日月に問いかけたのもまた虚伝だ。美しいと思った心が月に宿り、それがまた返ってくると三日月宗近が言った言葉を思い出して、刀ステ本丸がどうして三日月と山姥切なのかと疑問に思っていたことが少し腑に落ちた。
ずっと私が思っていたことは「山姥切国広」は元の主との逸話にあまり囚われていないから、だった。織田の刀も、伊達の刀も細川の刀も、そして小夜も。それぞれが皆自分に一番影響を与えた主人の影響を色濃く受け継いでいるし囚われている。山姥切国広が囚われていた物語は「写し」であるこということであって元の主の影響ではない。そこが三日月宗近と対をなす存在である時に大事なのかなと思っていた。でもそれだけじゃないと今回悲伝を見て気が付いた。それはステ本丸の三日月宗近が囚われていた物が見えたから。
義輝に「使われなかった」「美しい刀だから使われなかった」だから主を守るために戦えなかった。そして「永く後世まで伝えよ」と永い時間この世に美しいままあれという呪いの言葉を主によってもたらされた三日月宗近
なんというひとりぼっち…長い長い永遠に似た時間を、そのまま美しいまま生きろと言われてしまった事が円環の始まりなんだろう…しんどい(好き)
そして山姥切国広。彼は「美しいとか言うな」と言ってくる美しい刀。山姥切が囚われていたのは「写し」であるという事でありそのために「美しい」自分を認められずにいる。だから「写しではなく美しい刀」の三日月宗近の事を最初はきっと煙たかっただろう。そんな三日月に導かれて過去の自分を仲間と一緒に乗り越えて、写しではなく己の物語をと(ソハヤさん最高尊い)なった山姥切と三日月の間にあったのは「美しい刀」という共通したもの。勿論どの刀も本当に綺麗な刀ばかりであるのだけれど、言葉になっているものとしての「美しさ」
初めて三日月を見た時に「静かでどこかさみしそう(て言ってた?)で美しい刀だった」と思った山姥切が三日月を美しいと思った心がそのまま三日月に返って、三日月も「そなたは十分に美しい」と言ったのだなあ…すごい全部虚伝と対になってる。と震えながらいたのだけれど決定打が三日月が放った

「山姥切と約束しているから」

どうして燭台切光忠を切ったのか?という骨喰の問いに対する答えが「約束」ですよ…気が遠くなりそうだった…
この時点で三日月宗近が円環の中を生きている事は分かっていて、その三日月が光忠を切った理由がまだ光忠に折られるわけにはいかないから、何故なら山姥切と約束をしたから。円環の中を延々と繰り返し生きているのに約束を果たすために…??眩暈がする。
中継カメラが良い仕事をし過ぎていて、会話を抜いてくる時何故か映像(ドラマとか映画とか)よりのアングルで抜いてきたのですごい効果抜群だったのだけれど、山姥切との約束のために折れるわけにはいかないという三日月宗近に頭殴られてしまったようになって実際また約束された所では本当にだめだったからFUのお姉さまたちのこと心配してしまった。
実質また会おうって約束を、そこで!そこでする?!!!ええっ!(最高)

ここで「三日月が刀解される前の三日月vs山姥切」は毎回行われている になる。

あと毎回行われているのは

〇本丸襲撃戦
〇三日月の異変に気が付くのは燭台切
〇結果としての三日月の刀解そして結の目の消失
そして

〇三日月が円環にとらわれいている事による 序→虚→義→外→助→恕→非を繰り返している事
になるのかな、と。

思い出してみると三日月が山姥切に対して「なかなか手がかかる」と言っていたのは「今回の山姥切、だいぶ面倒だな」ということでは…。手がかからない山姥切もいたのでは…おじいちゃんの記憶バックアップ見せて。


本丸襲撃戦に関しては「俺はこの本丸に強くあって欲しいだけだ」と言葉を変えて何度も三日月は言っていて。きっと最初の頃は本丸襲撃戦で三日月以外全滅とかしたことあったんだと思う…もしくは審神者がやられたとか。
だから三日月は山姥切を近侍にし本丸自体を強くしようとした。襲撃戦がくるまでの間に何度も出陣してその度にレベルを上げた。これが小烏丸の言っていた鵺が自分達と同じ事をしているのではないかという部分であり、勿論それは刀剣乱舞のシステム上そうなのだけれどここで鵺と三日月も同じことをしている事になる。

最初の頃はあっと言う間に本丸襲撃戦まで来てしまって全滅もしくはそれに近い事が何度もあったのだと思うのだけど、レべリングもそうだし極の存在が無かったからだ。助でお小夜の極が降臨した瞬間のあの感動…今回は長谷部と不動。あれも三日月5周目とかでは無かったんだろう。三日月の経験値による本丸育成のおかげで今回の襲撃は切り抜けられた。
極のように初期には無かったことがどんどん出てきて変化している事もあるはず。小鳥丸の存在。これもゲームに実装されていない刀はいないのであれば最初の頃は現れなかったんじゃないかなあ…だから今回は物凄く条件が良かったはず。
また別の話になるし周りは皆似たような考えなんだけど小烏丸が居なかったらあの役回り鶴丸さんじゃないか…って怯えてたからね…

刀ステ本丸の三日月宗近の願いは何だったのか。
「未来へ繋げたい」という三日月の未来というのは「自分がこの先もいきていくこと」ではなく2205年に起こった歴史修正主義者との戦いの中で自分が降り立った本丸が続いていく事のように思える。それは「この夜が明けないといいと望んでしまう」くらいに本丸の仲間に愛着を持ってしまったから。刀剣男士として共に凄し、戦った記憶、心がそこにあるからだ。
だけど問題は三日月の願いには「三日月も一緒に」はあまり含まれてない…

おまえ、馬鹿か(萌える)

ってなるやつなので本当勘弁して欲しい。この手のタイプにめっぽう弱い。
三日月は強くある事を山姥切に示してそう在るように導き、仲間を増やし、兄弟を死に至らしめた過去を乗り越えさせ、本丸襲撃という大きな試練を乗り越えられるように本丸全体を底上げした。でもそこに自分は含まれてないのだ。
三日月以外の皆はそうではないのに。

鶯丸が「主が目を覚まされない今自分達に命令できるのは近侍である山姥切国広だけだ」と山姥切に言い、山姥切が三日月と骨喰、大般若の捜索を命じる。
山姥切は近侍となる事で一つ一つ強さを身に着けていった訳だけどここに来てそれが足かせになる。近侍とは主に一番近い場所にあり、指揮を取るものだ。
個人の考えではなく全体を見なくてはいけない。本丸のためにどうしたら良いのかを第一に考えなくてはいけない。それでも山姥切の心は迷った。心があるから迷った。
ここで対比するのが長谷部なのだけれど、長谷部は長谷部で山姥切と付き合いが長いから気持ちは分かった上ででも山姥切の味方をして「よし!三日月を助けようぜ!」にはならない。そういう長谷部はとても好きだよ。
あくまでも刀剣男士達は歴史に仇を成すものをと戦っているのでそれが元の主であろうと刀剣男士であろうが一律に敵であり、己たちに刃を向けたものは時間遡行軍と同じである、なのだろう。
あぁ、お小夜どうして今お小夜がいないんだい、と歌仙になって言ってしまうほど山姥切の側にお小夜が欲しかった…山姥切さんは…と切り出してくれたに違いないのに。
うちの本丸は歌仙が初期刀です。なので今回の歌仙がすごくバランサーで、光忠の背中も山姥切の背中も押してくれて本当に恰好よかった…。相変わらず力で切ってて最高。

山姥切、歴史の渦を見せられる。
あれは円環の中を回り続けている三日月宗近の疑似体験のようなものでもあると思っているのだけど、何が酷いって最後がおそらく太平洋戦争な事だよね…
全く別の話で申し訳ないですけど「おまえが生きようって言ったんじゃないか!!」って声が聞こえてしまってな…。

で、最後に目覚めた時の波音にひっ…小田原っ…ってちょっと怯えたけれど
あの白い三日月宗近は刀解の力に抗っていて少しずつ三日月宗近たるものを失った結果だけどそこまでして抗ったのは山姥切と直接対峙したかったからだし、何なら倒されて折られたかったから。ここ二つが叶えば三日月は円環の中から逃れる事が出来るかもしれないし本丸は正常化される。
でも悲しい事に円環の中で何度も繰り返した三日月がカンストしてカンストしてるので叶わないんだよね…。刀剣男士達と刃を交えた時も出来るならば、そこで折られても良かったんだろうけれどそれも叶わない。
山姥切が刀を構え気持ちを決めて三日月に向かった時には正確ではないにしろ、もうこれしかない事も、刀解されるよりは自分がという事も分っていたんだろう。あの時の三日月の台詞さあ…本当さ…ここに辿り着きたいために光忠斬ってるの…本当に…な…(まあ、光忠が本気で向かってきたからなんだけど)

虚伝の時の背中合わせの三日月と山姥切を思い出して、後ろにかかるカノン調のBGM聞きながらも悲しいというよりすごく綺麗な物を見せられていると思っていた。
三日月はここに何度でも辿り着くために、きっと最初の山姥切が「次は必ず俺が勝つ!」と言ったから、次は自分を折ってくれると約束してくれたから、何度繰り返して、変わらないと思っていてもそこに希望を持ってしまっている。何度も何度も繰り返してその度に山姥切が「いつもその目で俺を見ていた」すごい殺し文句すぎた…
三日月に刃を向けた山姥切がものすごく美しかったし、あんなに終わって欲しくない戦いは無かったかもしれない。きっとあそこが永遠に円環すれば三日月は幸せかもしれない。

ゲームシステム的な事を考えるともう山姥切の極しかないと思うので、まさに「今回は間に合わない」だ。
舞台なので最終回に千秋楽までに山姥切の極が発表されて最後極でばーん!とぶっとばしてくれるとかない…千秋楽までに私達観客は三日月と一緒に円環の中を何度も何度も周回するのだ。
それでも三日月はまた山姥切と約束した。またこうして刀を交わそうと、ひとりだけ次に希望を持って刀解された。そうするしか出来なかった自分の力の無さと共に過ごした三日月を失う山姥切の悲しみなど知りもしないように。
何がかなしいのか、と考えたら三日月をまた一人で行かせてしまったことだし
何がいとしいかって考えたら三日月は自分を失わせたくせに山姥切には仲間や未来を、強くあるためのものを三日月宗近を失うということで与えていったことだ。

どうやったって過去は変えられない、けれど未来は分からない。
せめてそう思いたい。

最後の西暦~というナレがおそらく山姥切に変わっていた所で三日月がいない…となってしまったのでちょっと本当に容赦がない。

 さあ次見た時にまた何かが変わるかもしれない。それは見ている私がなのだけれど、それを楽しみに円環の中に入ろうと思う。

最後になるけどホトトギスって聞いた時に義輝の辞世の句ともうひとつ思い出したのがこちら。

「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」

ホトトギスが鳴いた方を眺めやれば、ホトトギスの姿は見えず、
 ただ明け方の月が淡く空に残っているばかりだった。
 
パンフレットの表紙には、小さな白い鳥がいて裏表紙には月がかかってるの…ぞっ!とするよね……