おかわりください

観劇したりイベントにいったりの記録です。基本的に自分メモ

美しさの在り処「舞台刀剣乱舞・悲伝 結いの目の不如帰」感想

 

「……うん、ありがたいな、約束というものは、 

   
               救われるよ。

 ©おかざき真理「阿・吽」

 

刀ステ悲伝が終わって二週間が過ぎようとしています。二週間?本当に?二週間?半月?と反芻しているけれどやっぱり何度カレンダーを見ても時間は進んでいるし今は八月です。自室は癖のようなもので未だに7月のカレンダーのままなので私はまだあの悲伝がある円環の中にとらわれているのかもしれないと中学生のようなことを思います。全部見てきてからの感想、お気持ちおまとめを記していなかったので自分に区切りをつけるためにこれを書いています。
と、いっても来週にまら大千秋楽と明治座初日の配信(しかも今度は配信期間がながいぞー!)が始まるのでまさに囚われてしまうのですけれど、それもまたよし。

※お気づきでしょうが8月頭に書いてました。



☆★☆★すごい長いよ!!!!☆★☆★

*1

 



舞台刀剣乱舞 悲伝・結いの目の不如帰
とてもとても好きな作品でした。
まずこれに尽きる。
世の中には漫画も小説もドラマも歌もアニメも、舞台も。沢山の物語があって。好きにも色々大きさとかがあるし、好きじゃないけどどうしようもなく惹かれるものもあるし、あんまり私には必要のないものもある。*2
そんな中「あぁ、とても大好きだ…好きだなあ」って思える作品に出会えて、そのために自分の時間やお金を費やせる事がとても幸せだった。


末満さんが「賛否両論になります」と言っていた意味が分かる。
私のようにとても好きだと思う人もいれば、そうではない人もいるだろうしその理由も分かる気がする。その一番は「描かれない」部分の事だ。
大人の事情というか原作サイドのOKラインというものがあるだろうから、これが一番大きかったのだと思うけどそれを踏まえた上で、そして原作サイドのOKももぎ取ってあの形にしたのは凄いことだし、何よりキャストとそして観客を末満さんが信じていたからこういう形にしたのだな、と思う。
描かれていない部分と、そこ細かく説明しすぎでは?というくらいの緻密さが紙一重のバランスで成り立っている脚本だった。原作ゲーム側のOKの範囲ないで創作して描くことは出来きなくはなかったのだと思うが、あくまでも「刀剣乱舞」という原作を尊重してゲーム内で描かれていない事を書かずに、けれど想像させる内容でありそこに踏み込んだ強気で、美しい話だった。
不思議な事に最初に見た時から最後まで舞台から受ける印象は殆ど変らなかった。
細かい所での気づきはあったけれど一貫した印象であった事は脚本演出のブレのな強さとキャスト陣の好演のおかげかもしれない。

蛇足になってしまうけれど、私の初見から書き散らしたものを貼っておく。
今見ても最初に感じたものがそのままくっきりとした形で取り出せてとても鮮やかだ。

otterpika.hatenablog.com

otterpika.hatenablog.com

note.mu

@otterpikaさんのツイート一覧 | fusetter(ふせったー)


ふせった、noteに関しては他の作品も混じっているのであしからず。


初見の時からずっと「なんて美しい物語」だと思って、その美しさ、そう私が感じるのはどこにあるのだろうと思っていた。考えずとも最初から明白であり大体が集約されているのは三日月宗近だ。
天下五剣、その中で最も美しいとされる。
それが三日月宗近であり誰もがその認識でいる。
前にも書いたが刀剣男士はつくも神であり、寄せられた思いが形をつくる。刀剣乱舞というゲームのキャラクターデザインがその一番の集合体であって平安の世に打たれたうつくしい刀、というイメージが三日月宗近のあのキャラデザになっている。
私達がそうであるように審神者の数だけ本丸があり、個々の願う所思う所の三日月宗近はそれぞれ少しずつ異なる性格だったり気性をしている(解釈)けれど「最も、美しい」というアイデンティティは揺らがないのだ。
それはそう願われ、そう在れという呪いだ。
美しくある事が当たり前であり、そう生きる事、在る事、振る舞うこと。そのすべてが彼に課せられた業であり、存在意義にもなるのかもしれない。逆に言うと三日月にはそれしかない。
その上で刀ステ本丸の三日月宗近は何度も何度も気の遠くなるほどの時間の中を繰り返す運命にあった。これはそのきっかけが明かされていないから未だに想像の域でしかないけれど、三日月の台詞から見るにある程度は自分の意思で円環を回っていることが分かる。そして彼が一番の命題に持っているのが「未来へ繋げたい」という事。
三日月は本丸を、そこにいる刀剣男士を愛した。それは本丸の皆が三日月を愛したからだ。鏡写しのように、いつかの山姥切と三日月が月を見ながら語ったように。最後の対決の場でしていた波の音のように寄せては返す、寄せられた想いを返す。そうしているうちに美しく、永く世にあるだけであった三日月が、何度も何度も繰り返す事をしても変わらなかった事象に対して「徒労ではないのか」と思い至った三日月が「未来を変えたい」と願ってしまったのだ。
これが正しい比喩であるかは分からないけれど「美しいお人形が持った意思」にも似ていると思った。
人形であるにしては彼等刀剣男士は心を持ってしまった。虚伝で山姥切が「どうして心があるんだ」と苦しそうに訴えたが、あれはきっと三日月も過去に思った事だろう。もう何度目かは分からないけれど、繰り返す時間の中でそう思ったことは何度もあっただろう。何度も何度も彼は仲間である燭台切を刃にかけなくてはいけなかったし、何度も仲間である刀剣男士たちと刃を交えた。
山姥切に諭す事でまた自分に言い聞かせている部分もあっただろうし、そう言葉にして言える整理がつくほど彼は何度も繰り返したのだろう。
終われないというのは、死ねないということだ。
自分の仕事柄もあるのだけれど「終われない、死ねない」って本当に残酷だと思う。永遠の命なんていらない。そんな中半ば半強制的に「永く、後世に伝えよ」と主に呪詛をかけられてしまった三日月宗近という刀のつくも神が、刀剣男士を超えて時鳥になりたかった話が私の中の悲伝という話だった。
刀ステ本丸の三日月宗近の元の主は足利義輝に設定されている。今回の悲伝で描かれたのは「三日月宗近とは何者だ」というテーマがひとつある。虚ろだったか?義が無かったか?如何なる刀であったか?と虚、義、如、とこれまでのタイトルに絡めて小烏丸が不動、長谷部、山姥切に問う。あれは私達見ている側にも同様に問いかけられているのだ。

おまえが今まで見てきた舞台刀剣乱舞三日月宗近は如何なる刀であったか?

末満さんがCUTで言及してきたように三日月は刀剣乱舞のシンボル的なキャラクターではあるけれど彼を主役にするのは大分難しい。刀ミュにも刀ステにも初めの演目には三日月は存在する。居ることが求められる部分があるキャラでもある。
その存在感を出すためのアプローチがミュとステで違うのが凄く面白いのだけれどこれはまた別の話。
では三日月宗近は何者だ、という題を冠した時にどうしたのかというと、見せようとはしない月の裏側をむりやりこじ開けるのではなく、彼の周囲を描くことで三日月の悲しみも喜びも後悔もを描いた。
一番分かりやすいのは鵺の刀、時鳥の太刀だ。
時鳥はそのまま三日月のifの姿であり、三日月が叶える事が出来なかった主を守る刀として生まれた鵺は主に名前を与えられ、主を守るために戦った。歴史は変える事は出来ないのだから、鵺の刀は義輝を未来へ連れて行く時鳥にはなれなかった。けれど彼は主の刀として名を呼ばれ、彼のためにと忠義を尽くし戦うことをした。現に一度は義輝を窮地から救っている。最初の生まれた時には既に義輝が死んだ後、二度目は生まれた時よりほんの少し早く、と少しずつ時鳥となるべく時を駆けた鵺の刀は一度だけその刃で己を必要としてくれた主を守ることができた。時鳥が生まれ、主を守るために強く在りたいと時を駆けて刀剣男士と戦って経験値をあげたことは、徒労ではなかったのだ。
これは三日月にとっては朗報だったに違いない。結果として歴史は変わることは無かったが、変化を生み出すことは出来た。これがどういう事かって、もう結論から言うと大千秋楽のあれと同じです。
三日月が何度も何度も繰り返した時間の中で平成最後の夏の始まりに描かれた悲伝のターンのみ生まれてきた時鳥は「結果としての歴史は変わらないが今の小さな変化」を生み出す事が出来ると証だてて消えていったのだ。
鵺の刀、時鳥の太刀についてはそれだけでひとつ記事あげれそうな位なのだけれど、とにかくいじらしかった。生まれたてでまだ赤子のようだった彼は生まれた時から「義輝様」という存在しかなかったのだ。義輝が世界の全てで喜びも悲しみも存在の全てが義輝のためにあった。まだ刀剣男士にもなりきれなかった足利義輝の刀として最後帰りたい、帰りたくない、と言って消えていったあの刀の事が私は大好きだった。
三日月のifとして在った鵺を三日月が見逃したのは「歴史に存在しないはずの異物」が何かを変えることができるのだろうか?という観測を、小さな希望をそこに持ったからじゃないだろうか。同時に、変わらないから、という実感を持っているのは三日月だけなので見逃しても大丈夫だと思っていたのかもしれない。そしてそれは少なくとも光忠が目撃した時点では三日月しか持ちようがない視点だ。三日月以外の本丸の刀剣男士は幾度となく繰り返す時間の中ではなく「今」という体感しかないのだから。*3
そうして、ただ一人の主のために戦い生きること、それこそが三日月宗近という刀のかって持っていた望みだったのだろう。使われることはなかった、と義輝に言うときはどこか寂しそうで、もう泣きそうなくらいに瞳を潤ませて言っていたのに*4鵺に言うときは怒りに思えるような強い語調だった。
前に愛し方、愛され方の違いと書いたことがある。
三日月と本丸の主である審神者の愛し方、愛され方、利害関係ともいえるそれは一致しているのだ。三日月宗近は刀剣男士として顕現したことで初めて「自分の力で戦い、守る刀」となることができたのだ。それを与えたのは審神者に他ならない。
今までの刀ステで、近侍である山姥切は戦いが終わると主に報告に行っていたが、三日月がよく主と話をしていた。主は三日月の事を心配しているけらいもあった。なので、そこそこ三日月と審神者は通じている(というか、意思疎通している)部分があったのだろうなと思う。そうでなくとも二部隊同時出陣とかいきなりかます審神者なので結構くせものだし、そうでなくとはこの本丸の審神者つとまらないと思う。

 

閑話休題

 
自ら刀を振るうことで主を守るために戦う事が出来なかった三日月宗近が、今、守りたく戦う理由はなんなのか。
少なくとも悲伝の時点で三日月は自分の理由で動いている。
今までの虚、義と根本的に違うのはここだ。
ただ彼はぎりぎりの瞬間までは審神者の本丸の刀剣男士として本丸を襲撃した時間遡行軍と戦っている。きちんとカウントしてないないけれど、描かれていない部分を含めても三日月単独で切り倒した敵が圧倒的に多い。
この時が来てしまった、というようなセリフから見ても、時間遡行軍における本丸襲撃がある種のターニングポイントであり、ここで沢山の者が奪われた事が想像できた。いつかくるその時のために「本丸に強く在ってほしい」と三日月は山姥切に言っていた。その来る時は時間遡行軍による本丸襲撃でもあるし、三日月宗近が去っていくことでもある。でもできるなら「この夜が明けねばいいと願ってしまうほどには」三日月はこの本丸の刀としている時間を過ごしたかったのだ。
何度か見る途中で自分の中で「あぁ、そういうことか」と気が付いた事のひとつに

「この本丸の山姥切の成長には三日月宗近を失う事が必要」なのだという事だった。
この悲伝という物語に置かれた「集大成」という言葉は虚伝からそこに居る事を示していた三日月宗近を描くことであり、この刀ステ本丸のゴールではない。
描くゴールはもっと先の話で、きっと今はまだ、三日月以外は高校生で言えば一年生の後半くらい(もっと幼いかもしれない)
そしてもう一つ、三日月と共に刀ステ本丸の主人公、その成長を描かれていた山姥切国広にとってのゴールは、今回明確に描かれた。ひとつは近侍であるということ。もう一つは三日月宗近を救うということ。
悲伝で山姥切は近侍となれた。正確に言うと今までも彼は近侍であったのだけれど、鶯丸に命じてくれと言われ、指示を出した時、あの瞬間に彼は刀ステ本丸の近侍に真の意味でなったのだろうと思う。
それはきっと三日月宗近が山姥切国広に願っていた事だ。強く在ってほしいと三日月が願った本丸の近侍は山姥切国広でなければならない。
「強く在れ」主がそういっているように思えると山姥切が言っていたことがあるが、それは=三日月の願いでもあったはずだ。
山姥切が近侍であることに一番こだわっていたのは三日月だった。
義伝で山姥切から近侍交代を申し出られた時の三日月の表情の代わりっぷりが凄かったのが印象的で。あの時は冗談で「新入社員がようやく仕事できるようになったと思ったらまただめだーかわってくださいーて言うのを見る先輩」みたいなことを言って友達に分かる、と笑われたけれど、今回の悲伝を見て
「三日月は山姥切を折りたくない」(それは折れたことがあるのか?)
「未来へ本丸を繋げたい、誰一人失う事はしたくない」(そこに今現在の自分は含まれない)
ここがあるのかもしれないと思った。
義伝を思い出すと黒甲冑に切られた小夜をあり得ないくらいの機動力で確保しその安全を保持したのは三日月だ。同じく義伝で黒甲冑を飲み込んだ鶴丸国永が伊達の刀に切り込まれて黒甲冑としての力を倒された時に一番に駆け寄ったのも三日月だった。ジョでは顕現したばかりの三日月が与えた御守りにより山伏国広が救われている。いつも三日月の行動で刀剣男士達は折れずにいる。
ではなぜ光忠を斬った?と言われるかもしれない。だけど、三日月は光忠を折ろうとはしてないのだ。光忠との戦いに区切りをつけるためのひと太刀を打つ前に三日月は苦しそうな表情で首を振る。そうではない、と言うように。
それからもう一つ。三日月が刃を立てた場所、光忠はもともと負傷している。
あそこで折れる訳にはいかない、山姥切との約束を果たすところまで自分はいかなくてはいけなかったから、と骨喰に三日月は語ったが、それはあの時点であぁすることしかできなかったからだ。自分の刃で止めなくては光忠は止められない、くらいには強くあってほしい本丸の太刀として光忠強い刀だったことの証かもしれない。
あそこで三日月が折れてしまってはこの先の未来につなげる事が出来ないのであって、光忠を傷つけるのが目的ではなかった。そしてそれは光忠本人からも語られている。


刀ステでとても丁寧だなと思うのは「こういうことですよ」という見立てのような事をきちんと必要な処の前に予習させてくれる事だ。
例えば「俺たちは刀であるから、刃でもって語ろう」的なセリフを言って三日月宗近VS刀剣男士を行う。全員そろっている場所でそうすることで否応が無しに誰を中心として見ている人でも「この戦いにより三日月と刀剣男士は言葉ではないけれど語らう場を持つ」と認識される。そのうえで最後の三日月VS山姥切を持ってくる。
これがすごい丁寧。いっそそのセリフなくてもいいのでは?ということもきちんと説明してくれることが多かった。
あれほど三日月と手合わせをしたい!と勇んでいた大包平がそれを叶えるのが敵として切らなくてはならない!となった時に三日月の台詞として「このような形で叶うとはな」と一言いれる。ひとつひとつのやり取りを回収する様は本当に丁寧としか言いようがない。*5

そして「心に非ずと書いて、悲しい」
鶴丸国永から齎されて小烏丸も紡いだ言葉。最初に語らった三日月と小烏丸、そして鶴丸の場で鶴丸国永は明らかに三日月に対して語り掛けていた。小烏丸もそうだ。ここで鶴丸がたたみかけようとしたときに小烏丸はその言葉を遮るようにする。全ての刀剣の父であるという小烏丸様はほとんど母のようで慈しみ深かった。皆まで言わせて、鶴丸に残る傷をつけまいというように言葉を遮った。
心に非ず、という言葉は三日月に言い聞かせているようであった。その後の悲しい驚きであってもと三日月に対して差し伸べる腕はあるのだと鶴丸は示すけれど、だからこそ三日月はその手を取らない。それがおぬしの心か、と強い瞳で言って何かを確認したかのようでもあったのだ。ここのやり取りが凄く好きで、長く生きた刀であるからこその腹の探り合いにも似た応酬には面と向かって素直な言葉にしてしまったら誰かに咎められてしまうこともでもあるかのように。もしかしたら実際そうなのかもしれない。三日月が望めば鶴丸は味方をしてくれたのかもしれない。もしかしたら、そうであったことがあったかもしれない。その結果、刀解されたという事があったりしたら三日月は決して鶴丸国永の手を取りはしない。何でだか三日月がやけに鶴丸に対して辺りが強いのであなた達何かそこ語られていないターンがありますね…と思ってしまう。待機してます。
心に非ずと書いて悲しい、と説く鶴丸国永は「君には心がある」と言うようでもあった。確かに三日月宗近には心があった。心があるから幾度となく繰り返した「悲劇」と呼ばれるような事象にも三日月は悲しそうな顔をする。何度も何度も繰り返していると麻痺しそうなものなのに、彼はその都度心を痛めているのだ。それでもなお進む道を選んでいる。いっそ心を手放してしまえば楽になれるかもしれないのに手放すことはしない。
あまり皆を悲しませるな、と小烏丸が言うセリフの皆には三日月も含まれていて「おまえも悲しんではいけないよ」と言っているのに三日月は自分の心は後回しにしてしまう。のちに山姥切に対しては「皆で立ち向かえばいい」と小烏丸は言う。
その皆を、三日月は山姥切においていったのだ。自分だけを失わせて、三日月は山姥切に強くあるための、仲間をすべて置いていった。近侍という役回りを与えて、彼がそこから動かずに、決して折れる事がないようにして。
三日月が山姥切を近侍にしたこと、こだわったのは山姥切が近侍である以上、彼は折れることがないだろうからだ。それは刀剣乱舞というゲームシステムがそうだから、山姥切は本丸の近侍である以上折れる事はない。そうすることで三日月の希望はまた一つ未来へと繫がるための布石となっていくのだ。
近侍という役割は山姥切にとっては保護であり枷だ。
彼は近侍という立場であるからこそ、骨喰のようにその心のままに追いかける事も抱きしめることもできない。
そうしたい気持ちはきっとあっただろうけれど、山姥切はそれをすることはできない。山姥切国広は主である審神者の刀であり、本丸をまとめ、指揮する近侍だからだ。
けれども彼の心は迷った。それは心があるから。どうして刀なのに心がある、心がなければ惑うこともなかったと三日月に訴えた虚伝と同じことを山姥切は思っただろう。でも彼の側に三日月は居なく、それを他の誰かの前で訴える事はない。それは山姥切の成長でもある。
三日月の願いが「本丸を誰一人失わせることなく未来へ繋げること」なのだとしたら、じゃあ山姥切国広はどうだろう。
山姥切国広の願いはどうだったのだろう。
これは悲伝を経てではなく、悲伝という物語があるまでの、という意味合いでのなのだけれど、山姥切の願いはきっと
「本丸の近侍として強く在ること」

そして、もう一つ

「天下五剣、最も美しい三日月宗近、己を導いてくれた美しい刀に恥じぬよう並び立つ事」

だったんじゃないかと思う。
月と太陽の背中合わせシンメとして位置付けられている刀ステの三日月と山姥切だけれど、山姥切は己自身の物語だ!という強さをもう得ている。そのうえで自分を導いてくれた三日月と同じ場所、目線の高さで同じように高みを目指して強く在ろう、と思っていただろう。三日月の言うような強い本丸である時が来たならその時に三日月宗近が居る事をかれはきっと疑ってはいなかったんじゃないだろうか。
皮肉な事だけれど山姥切が真の意味で近侍なったのは三日月を失う事が引き金であった。そして先に書いたようにきっと山姥切がもうひとつ強くなるためには今回の悲伝のラストのように三日月宗近が本丸から失われることが必要なのだ。
そうして、今まで自分達の頼れる仲間であった強く美しい刀が失われる事で、そこからどうするのか、というのが刀ステで描きたいことなのだろうとも思う。
山姥切の願いは叶う事はなかった。

三日月宗近は自分の目の前で失われていった。
山姥切には悲しみを与えて消えていった三日月だけれど、彼は笑っていた。
だって希望を抱いていったのだから。何度も何度も気が遠くなるほど繰り返される時間の中で、幾度も対峙した山姥切はそのたびに次は勝ってみせると約束をしてくれるのだ。徒労かもしれない、そう思っている三日月がそれでも未来を変えたい、変えることができるかもしれないと希望を抱けるのは山姥切の存在だ。
「お主はいつも、その瞳で俺を見た」
初見の時からこの台詞、言葉で思わず顔を覆ってしまって、何度見ても何度もこの台詞を聞くたび、三日月を見つめる山姥切の視線を見るたびに泣いてしまった。
山姥切の表情はその時々に違っていた。本当にぐしゃぐしゃに泣いている時もあったし、強く力を込めているような時もあった。けれどいつでも真っ直ぐに三日月を見ていた。それこそが三日月宗近の救いでもあったのだろう。
二振りが刀を交わす際に小烏丸が言う。

「ここに居る三日月宗近とここに居る山姥切国広の物語だ」と。
あの言葉で山姥切国広は、幾度となく円環を回り続けている三日月の、何度目かではなく今この瞬間の物語なのだと思う事が出来るし、同時にふたつの刀が、立場も何もなくただの刀として対峙できたのだと思う。
二振りの対決はなんてきれいで幸せな瞬間なんだってぼろぼろに泣いていた。
京都で見たある日の公演で、その日はずっと自分の気持ちがズームアップされるみたいにいつもよりもぐんぐん浸透してくる感じがあったのだけれどそのピークが三日月VS山姥切で何を語られても、腕を少し動かすだけでも、それこそ山姥切の髪が少し揺れただけでも泣いてしまった。誰に、どこに共感しているのは分からなかったけれど、役者がフルパワーで演じているものをフルにど真ん中で受け取るとこれほどの熱量があるのかと驚いたくらいで貴重な体験だった。*6
色々な事があるけれど、ここに、刀ステは、三日月宗近と山姥切国広の物語はここに辿り着きたかったんだ、と思ってはもうずっとこのまま終わらなければいいのにとカノンのような音楽を聞きながら思っていたし、絶対何も見逃さないと泣きながらも瞬きはしないという必死さで見つめていた。その際の小烏丸様の立ち姿の美しさも忘れない。もはや母であり神であった。
あまり細かく書いて言葉にしてしまうとどれもこれも違うものになってしまいそうだから書けないのだけれど(もしかしたらこういう気持ちで描かれない事ってあるのかもしれない)二振りの刀が近くなって、顔の距離が近くなった時山姥切は悲しそうな、苦しそうな顔をする、それに対して三日月は切ない表情を浮かべながらも否定するかのように首を振った。とても好きなシーンだ。どちらの表情もいつもすごみがあった。
台詞がない。
何も二人は言葉を発さない。

見ているこちらは想像するしかできないけれど山姥切と三日月の間には「刃を持って語る」という言語が存在するので彼ら二人の間には何かしらのやり取りが存在する。
山姥切は三日月と対決する前に時のはざまに飲まれてしまい文字通り時を駆けた。ここに居る筈のない存在だと自分の事を言い、人の歴史を一気に見てきた。あれはきっと三日月宗近が見てきた時代なのだろう。それを一気に見せられた事で三日月の過ごしてきた時間の追体験をし、さらに三日月と刃を交わした事で過ごしてきた時間や運命、その長さも記憶も全てではないにしろ受け取ってしまったのかもしれない。その長さや重さは決して一瞬で受け取れるものではなかっただろう。もしあそこで交わされたやり取りを仮に言葉にするのなら

「もう終わりにしよう」

「いや、まだだ」
というようなものになるのかもしれない。あくまでも仮の、私の目で見た限りでの話だ。この場合、今この二人で戦っている事というより三日月の長い円環を廻る時間の事を山姥切は言ったのだろう。それを終わらせるためにはどうしたらいいのかをはっきりと分かったのは刃を交わしてからだったのだろうとも思う。
だからこそ、次は俺が勝ってみせる、と何度も約束をしたし、今度はもっと強くなった俺が、と最後には三日月への最大限の希望を添えて約束をしたのだ。
約束は呪いでもあり誓いでもあり、希望でもある。
大千秋楽に三日月の刀を落としたのは山姥切であり、三日月は「またこうして刃を交わしたいものだ」と言った。三日月からの約束の言葉はなかった。

交わしたいと、彼は言わない。言えないのだ。そう言葉にしてしまうことで山姥切をも円環の中に閉じ込めてしまうことになりかねないからだ。お前たちに背負わせるわけにはいかない、と強い意志を持って三日月は一人で戦う事を選んだ。一方でそれを山姥切断ち切ってくれることも望んでいる。
最後に約束の言葉を投げたのは山姥切だった。

どれだけ三日月は嬉しかっただろう。

願っても言葉にしてはいけないと思っていた事を、山姥切から約束という形にしてくれたのだ。それだけでも彼の孤独な戦いはあの瞬間徒労ではなくなった。
また、戦おうということはまた出会おうということだ。
約束の言葉を発した瞬間に山姥切は自分の言葉でまた三日月を円環の中に投じてしまったのだ。それがどういうことなのかも悲伝で最果てまで辿り着いた山姥切はきっとわかっている。今、自分が救えなかったこと。三日月宗近を失った事。また三日月は同じように時を廻る事。今の自分はそこから三日月を救い出せなかったこと。
さよならではなく約束をした事は終わりのしるしをつけなかったということだ。
さよならを言わずに三日月を見送った山姥切は彼が消えてしまってから子供のようにに泣いた。
子供のようにしゃくりあげて、時には地面を叩くこともあった。
悲しみと、悔しさと、いろんな感情が噴出して桜が舞い散る名残の中で泣き崩れる山姥切の、最後に三日月に伸ばした指先が届かなかったことが切なかったし、あの瞬間の山姥切は近侍の山姥切ではなく、ただの山姥切国広として泣いていた。三日月宗近を失ってしまったことが悲しいと子供の用に泣いていた。それを許してくれたのは小烏丸の言葉であったように思う。

三日月と山姥切が戦っている間の小烏丸はずっと不動の位置で、一番真ん中の奥で光を背負って文字通り見守っていたのだけれど、三日月が山姥切から離れてその場所へ向かう時の小烏丸の表情。ライビュでも抜かれていたあれ。あれ、どうしたらあんな表情が出来るんだろうって泣きながらもう大拍手。
聖母だった。
完全に聖母。
皆を悲しませるなよ三日月宗近、と言った全ての刀剣の父は等しく三日月にもその愛情と慈しみを注いで、今まで三日月が担っていた皆を導く立ち位置を一手に引き受けた。惑う刀がいれば納め、困っている刀にはアドバイスを送り、そして三日月宗近にはいつでも自分を頼れと言葉をかけた。きっとこの悲伝のターンが今までで一番の良いエンドに辿り着けたのは小烏丸が本丸に実装された事が一番大きい。
そして山姥切との戦いを終えた三日月に小烏丸が向けた聖母の微笑み。こちら側から三日月の表情は見えないけれど、泣いていたか、笑っていたか。そのどちらともかもしれない。
三日月に向けられた小烏丸の微笑みは「よくここまできたな」というねぎらいのようにも見えた。


三日月と山姥切が背中合わせであるのは彼等二振りに共通する「美しい刀」という事が大きいように思っている。
三日月宗近は「美しい」が故に主を守るために刀として使われることはなく「永く、後世まで伝えよ」と呪いのように言われた刀だ。彼の本当の望みはその自らの美しさのせいではじめに失われている。それでも彼は美しく在ることを望まれそれを捨てる事はできない。
一方山姥切国広は美しい刀でありながら自らその美しさ、他者からの美しいという評価を拒んでいた。それは山姥切が対峙していたものが「写し刀」であるからだ。骨喰が失われた記憶を探しているように山姥切は写しであることが本当の自分の評価ではない、とその美しさも己のものではないと思っていた刀だ。
美しくありながら、その美しさを否定し、それでも強く在ろうとする山姥切だからこそ、美しいと言われたために己の願いをかなえられなかった三日月が希望を見出したんじゃないだろうか。

何が切ないって三日月を縛りつけたのは「三日月を見て美しいと思う心」そのものだ。山姥切は初めて三日月を見た時に「深く、静かで美しかった」とその印象を語っている。この言葉はきっと何度巡り合ってもその度に、初めて出会った時に山姥切は三日月を「美しい刀」だと思いその心を寄せたのだ。そうする事でまた三日月宗近は「美しい刀」になる。
同時に三日月の言う「あの月に寄せられたうつくしいと山姥切が思った心、それが山姥切にかえってくる」という言葉、うつくしいと思う心が寄せられて作る刀のつくも神であることを、その三日月の言葉でもって山姥切は救われた事がある。
同じ事だ。事象としては同じことだけれど、片方には呪いになり片方にには祝福、救いになった。これが三日月宗近と山姥切国広が背中合わせのシンメである(と私が思う)所以だ。

刀ステ本丸の三日月宗近と山姥切国広は月と太陽の背中合わせのシンメだ。
煤けた太陽と言われた山姥切はいずれ煤けていない強い太陽となるだろう。
そうしてただ一人廻り続ける運命にある孤独な月を救う力を得るだろう。
そのために今回の悲伝は必要だったのだ。

これは私の勘で予想なのだけれど、この二振りの話はここで終わる。
刀ステ本丸の話がこの後展開していっても、この悲伝の続きの話には直接的にはならないような気がしている。
未来に、いつか三日月が望んだ未来に繫がった時に誰かが「こういうことが過去にあって」と語られることのひとつがこの悲伝であり、きっと大きな歴史の流れのひとつでしかないのだろう。
それでも鵺の刀が言ったように「歴史とは過ぎ去りし過去ではなく、今だ」今だった。私が見た舞台刀剣乱舞 悲伝 結いの目の不如帰 という物語は今、見る物語であってここで生きていた刀剣男士達の物語だった。
この先刀ステ本丸がどんな展開を見せて、どんな結末を迎えるかは今の段階ではわからない。けれどきっと、どんな展開がそこにあっても私は悲伝と称された美しいこの物語を忘れないしずっと好きでいると思う。

私は美しいもの、強いもののそのてっぺんに位置するが故の孤独がとても好きだし、そう在るからこそ美しいとも思っている。
刀剣乱舞三日月宗近はそれを体現したようなキャラクターで特にそれが刀ステは際立っている。刀ミュと違い三条に縁のある刀達が存在しないことも大きい。彼は特別であり、それに足る刀であった。そう演じている鈴木拡樹の演技力たるや…と震える。
その孤独をそのままに、そこから引きずり下ろすのではなく同じ位置に上って同じものを見てやろうという存在がいれば泣いて泣いて拍手をする。それがきっと刀ステ本丸における山姥切だ。

いつか山姥切国広は、結いの目となった三日月宗近の時鳥になる。
歴史のその先まで、未来へと願った刀を連れて行く刀に、本丸の太陽に山姥切国広はなる。なるんだ。
そう信じている。
その時は三日月宗近という美しい刀が笑って、山姥切国広の隣で笑っていればいい。
羊羹、一緒に食べようね!!!!!!!
最後の歌、最初っからシンメで歌おうね…!!!!!

ほんとうにほんとうにだいすきだよ…!!!最高の夏の始まりだった!!!

ありが刀剣乱舞!!!!!!!
*7

 

 

*1:座長リスペクト

*2:私にとっては、なので誰かの一番であるかもしれないのだから存在の否定はできない

*3:これはこの一回しか見る事ができない、という観客側とのリンクがあって舞台とこちら側のリンクのさせ方が末満さんはお上手

*4:次の瞬間にははっと表情が変わるひろちか様最高

*5:だからきっと長い

*6:しかもその日はそんなに前方列ということでもなかったので距離はあまり関係がないのだなと思った

*7:1回やってみたかった